或るフリーターの手記

29才フリーター、日々の雑感を記す

ギターor die  の話

僕はギターがうまくない。しかし、どうしようもなくギターが好きである。

一日中、ギターが弾ければ人生満足である。そういう意味では、最近は毎日ギターが弾けているのでものすごく幸せである。

 

今日、何気にyoutubeで面白いギターはないかなと検索していたら

衝撃的な演奏に出会った

 

それというのは、中川イサトさんの演奏だ。

今までは、「五つの赤い風船」の人ぐらいの認識でいた

 

今まで、あまり、日本のギタリストでこれかっこいいと思う人がいなかったのだが、

中川イサトさんのインストは半端なく情緒的でかっこいい。タイトルの情景がギターの演奏により、鮮明に現れる。かの押尾コータローさんが憧れたというのも頷ける。

本当に衝撃的であった。ギターの奥の深さを改めて感じ、より一層励まなければならないという気持ちが沸いた。

 

加えて、音楽の無限の可能性にも気付ひた人生であった。

とても、一度の人生では、その極みを見ることなどできないのだろう。

僕も僕なりに、自らの音楽の探求をしていきたい

真摯に音楽と向き合えば向き合うほど、その大きさ、深さに圧倒される。

死ぬまで、研究なのだと思った。

 

覚悟が足りない。口では如何様にも言えるが本当に覚悟が足りなかった

 

今日はあまりものを書く気にならない。それよりもギターを弾くこととする。

 

余談であるが。ブログを書くことは案外自らを奮い立たせるためには良いのだと実感している。一日をしっかり振り返ることで明日も頑張ろうと思うのだ。

 

 

世の中に意味のあることはあるんだろうか? 死ぬことはどういうことなのか

最近、死ぬことについて考える。

自殺志願者とかそういわけではないのだが、
「死」と真っ向から、対峙した経験はない。
幸いなことに、今まで、大病も患わず
事故にも、あわずに生きてこれた。

ミサイルがふってくるかも知れないと煽られるからか、自然そのような考えも沸いてくる。

人間の存在の偶然性を思うと、死ぬことも偶然であり必然なんだろう。

死ぬことは怖い。痛いのも嫌だ。ゆっくりわからないうちに死にたい。
嫌に宗教じみた話になりそうだ。
今日は漠然としたことを朗々と書いていこうと思う。
僕はこのような漠然とした何の答えも出ない議論が好きである
生産性や合理性を何よりも求めていた時期もあったが、それはあまり意味をなさないのではという考えに至った。


僕は結論や結果、実存などというものにはたいして意味を感じえない。

今というのが、ほんとうに存在しているかも怪しいものだ。すぐに過去に流れていく。

今を掴みとることの難しさをこのブログを書いていて再認識している。


今の20代にリーダーといえる志を持った人はいるのだろうか。

この複雑でめんどくさい日本社会を破壊し、創造しようという、気概に満ちみちた。人はいるのだろうか?

世には美男は増えたが、心が清くかつ自らを捧げ未来を変えんというはあまり見受けられないように思う。

あくまで私見だが



日本の抑圧的な考え方を変革しなければいけない時期にあると思う

もっと開かれた国家であって欲しい。
これは願いであり、甘えだ。

僕は常に他人任せだ。弱い人間であるという自覚がある。

もうそれは変えようのない事実である。

問題はこれからその弱い自己とどう向き合うべきかという
社会は誰かが変えてくれることを期待しよう

自分をどう変えるかを考えたいと思う
人を変える大きな要因の一つに「不幸」というものがあると思う(事象を幸ととらえるか不幸と捉えるかは本人次第なのだが)
この「不幸」から何を学びとするのかで人の方向性というものが決まってるのだろう

私という弱い自己の形成には、今までの多くの失敗が起因している。主に人間観家である。

私はどうにも1人でいたい質のようで社会に全くなじむことができない。
恐らく、それほど長く生きられないように思う。

ルソーなどは人間は一人で生きたい生き物であるという類の言論を唱えており。ひどく共感を覚える

世の流れというのはどうにも退屈で必死でついていこうという気が起きないのだ。まったく阿呆である


人というのは弱く脆い生き物でその精神はすぐに瓦解してしまうものだ

権威というものにすぐにひれ伏す。良く調べもせず、その種の専門家を崇める

怠惰である

世の中に完璧な人間「パーフェクトヒューマンはいるのだろうか」
いるのならぜひお目にかかりたいものだ
きっと、後光がさして、僕などは目を閉じてしまうのだろう

人生とは無意味だ。しかし、楽しく生きることにはとても価値があるように思う。
五感を存分に使い生きるべきだ。さらに、人間には「考える」という武器がある。
より良いものを考えていこう。そして、死ぬ間際、世界や人が何を求めているのか、その一案にでもつながる何かが生まれてくれていることを期待しよう

あと、余談だが、こんなブログにも読者が一人ついてくれた。ありがたい限りである。

ちょっと耳コピできるようになったカタツムリ ディズニー音楽のすごさ

今日はギターな一日だった。本当に一日中ギターを弾いていた

そのおかげなのか、目をつぶって弾いていたら、耳コピがちょっとできるようになった

これはすごく嬉しい

 

独学で学び続けて、やっと少し耳コピができた。

今まで、視覚に頼りすぎていた。音楽は耳を養わないといけないことに遅ればせながら気付いた。

 

僕は才能という言葉とは無縁だと感じた

 

何をやっても最初からするりと言った試がない。ギターも御多分に漏れずそのようだ

しかし、他のことはあまり興味がなかったため続かなったが、ギターは続きそうだ

 

生涯を通して、頑張っていこうと思う

 

耳コピは楽しい。好きなアーテイストの曲をワンフレーズでもコピーできただけでも大した進歩だ。

 

僕のギターの上達スピードはカタツムリぐらいおっそい、もう進んでるのかどうかよくわからん

 

ギター教室に通う金もないので動画を漁ったりして一応懸命に練習してきたつもりなのだが、うーん前途は多難である

 

カタツムリなりの音楽を創っていこう

耳コピやって思ったんだが、技術をコピーするのは非常に良いのだが、それを自分の音楽に取り入れるよう工夫しないといけないなと思った。

 

ギターのうまい人たちは自然にやってることなんだろうけど、僕はどうにも次のステップに行くのに時間がかかる

 

そろそろ自虐的な言葉はやめよう

 

話は変わるのですが(もっとも元々脈絡などないのだが)

僕はディズニ―の音楽が好きだ。あの色んな世界観が混ざりあった感じの音楽が良い

ディズニーの音楽は聴くととても元気になる

あれはどういう仕組みなのだろうか?

 

コードがこうきらびやかなものが多いなと思う。

アラジンの「friend like me」を弾き語ろうと思ったら、コードがごたごたしてて難しかったなー

 

アラジンのミュージカルの動画に出てきたアラジン役の人のパフォ―マンスの人すごかった。

ミュージカル俳優の人たちは呼吸法や姿勢が素晴らしい。一流の人はどんな人も姿勢がいいなと思う。やはり、物事の根幹には姿勢があるんだろうと思う。

 

日本人は外国人に比べて姿勢が悪いらしい。発声法の違いも一つの要因で、英語は正しい姿勢でいないとしっかりと発音ができない。しかし、日本語の場合あまり口を動かさなくても発音ができる。

 

はっきりと発音ができる人に憧れる。文字や声にはその人の生命力がありありと現れるように思う。

 

僕はどうもだらけてしまうので、だめだ。おそらくそれがギターの腕があがらない要因でもあるんだろう。

 

ちゃんとしよう。

 

 

 

ギターうまくならないので辛い

ギターがうまくならない( ノД`)シクシク…

 

何だろうか、根本的にリズム感や音感がないのだろうか?

好き勝手に、独学でやってきたことがやはりまずかったのだろうか?

 

恐らく、理由は色々あるのだろうが

 

速弾きやチョーキングなどにこだわりすぎた。難しいテクニックばかりを追い求めすぎて、肝心の基礎がまるで不安定だ

 

もっとリズム感や音感を一から鍛えなおそう

基礎練習を怠っていたことを反省しよう

 

僕の大好きな歌手の玉置浩二さんは、音楽に終わりはなく、今の若い人たちには基礎が足りないと言っていた

 

自分の基礎力のなさを痛いほど感じる

 

 

音楽の奥の深さというのは尋常じゃない

最近やっと、音楽はコミュニケーションであり言語であるということの意味がつかめてきた。もっと多くの人とミュージシャンと対話しないとそれが自分を高める一番良い方法だ

 

独りよがりの演奏など誰も聞いてくれない

自分の思いを相手に伝えられるようもっと努力しなくてはいけない

 

 

明日からも、ギターの練習に励もう。もっともっとうまくならなくてはだめだ

自らを打ち壊して個性のある演奏をできるようにならないといけない

 

最近、フラメンコやジプシー音楽に興味が出てきた。

これらの演奏は超絶技巧だ

チャレンジしているのだが、できる気がしない

 

ジプシー音楽はロマ人によって継承されている音楽だ

彼らの過去はとても悲しみに満ちている。しかし彼らは陽気に音楽を演奏している

いつか、ロマ人の一団に会って、音楽を教えてもらいたい

そのためにも、今はギターの練習に励もう。

 

音楽は言葉だ。音楽ができれば全人類と会話ができると思う。

全世界の人が楽しくなるような演奏ができるようになりたい。

 

Esta Tonna 氏のような生き方に憧れる。

音楽家として世界を渡り歩く姿は理想である

 

好きな生き方をするためには、努力だ。たゆまぬ努力だ。

このことを忘れずに今年一年を過ごそう。いや、まず一週間を全力でやりきろう

 

何歳になっても夢はあったほうが良い。目標があったほうが楽しくなる。

漠然と物事を行ってしまう癖をいい加減直さなければいけない

自分の進歩を確認しながら、着実に歩みを進めよう

悔いのないように生きるんだ

あきらめずにあきらめずにあきらめずに頑張るんだ

 

自分の好きなことをやれない人生はまっぴらだ

自分を常に不快な状況におこう、常に一定のストレスを与え続けよう

学習は生半可な気持ちでは意味をなさないことは今までの人生で嫌というほど分かった。中途半端では何も身につかない

 

精一杯やるんだ

人間の存在理由は何なのか?遥か彼方から紡がれる今とは何なのか

人間の存在理由について考えてみた

 

結論は「分からない」に尽きる

(このブログの内容は科学的根拠などはなく、単なる私見です)

 

 

古代に生きた人々は昼は狩りをして、夜は火の周りに集まって、一日の出来事について話をしていたらしい。

 

過去から、現在まで多くのものが生み出されてきた、数え切れないほどの人生があった

およそ、人という扱いを受けずに死んでいく人もいれば、優雅な暮らしを楽しんだ人もいたのだと思う

 

今もその実状は変わらないだろう。

私がこうしてくだらない文章を書けていることは、とても幸福なことだ

 

学ぶ意欲があれば、学問もできるし、日本にいる限りにおいては娯楽には事欠かない

そのうえ、日本はとても安全だ。ただ、安全であるがゆえに、緊張感を欠いてしまう

 

快適な環境というのは、人間の成長にとってはあまり好ましくない。

不快な環境に自らを放り込むことでしか、成長は期待できない

 

成長をしなくてもよい社会、生き物であれば無理に自らを劣悪な環境に置くこともないのだが

 

いかんせん、我々の生きる世界はそうではないようだ

生きるためにはお金が必要で、社会に貢献することを求められる

 

社会に貢献するためには有用なものを生み出さなければならない

過去から、必要とされるものが多く生み出されてきた。

 

昔の人は今の世界を見たらどう感じるのだろうか

ものが多く増えすぎた現代に幸福を感じるのだろうか

現代の人はものが増えすぎていて、幸福を感じづらくなっているように思われるが

 

結局のところ、人間の生きている意味ってないんじゃないかなと思う

(これは人類は滅べば良いとかそういった類のものではない)

 

すべてが偶然であり、無理に人生に意味を求める必要もないし、何かをやらなければいけないという使命感を持つ必要もないと思う

(使命感のある人は非常に立派)

 

「今を楽しく、幸せに生きる」

 

使い古された言葉ではあるが、みんなが常に心の中にもっておくべき言葉ではないだろうかと思う

 

辛いことがあったら、やめちゃえ、逃げちゃえ

ただ、自分のやりたいことは全力でやることが大事

 

誰のいうことも鵜呑みにしてはいけない。誰も他人の人生を本気で考えている暇はないから。自分の人生は自分で考えなければいけない。

 

他人に考えることを任せた人生で自分の人生を放棄したようなものだろう

自分で考えることは疲れる。答えのない問題と常に戦い、もがかなkればいけない

誰かに人生を任せたら、一応は答えを出してくれるのだ。

「○○をすればよい」と明確に解をくれるだろう。

 

しかし、そんな人たちほど無責任なものはない

信じるべきは「自ら考えろ」と言ってくれる人だと思う

 

存在理由なんてもの自分で考えろという話だ(笑)

 

こんなブログに見る価値はないのである

SEO対策などめんどくさい、キュレーションメディアがあってはしっかりとブログを書く気は起きないのである

 

余談であるが、海外のサイトは面白い

各人が思考を凝らしてくれているため、情報の密度がとても濃く、みるに値する

 

明日からも創作活動がんばろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

変人が世界を牽引する

変人とは

変人とは、「変わった人」普段の行動、振る舞いが一般の人と異なっている人だ

世の中を変える発明をした人

偉人と呼ばれる人はみな変人であると思う

いや、変人なのだ

 

行動が一般の人と変わっているからこそ、通常の思考回路を抜け出た突飛なアイデア

出てくる

 

アインシュタインエジソンビルゲイツ・・スティーブジョブズなどなど

人生の中で世界を変える発明をしているが、私生活でも常識を超えたエピソードがたくさんある

 

「あの人、変だよね~」という言葉ほどナンセンスなものはない

 

人間みな違う。同じ人などいない。

 

僕はむしろ自分が「変」でなくなることのほうが怖い

自分が社会に溶けていくことが、死ぬほど怖いのだ

 

「変人」というのは、個性があふれ出ている状態だ

 

決して恥じることはない

 

そう分かってはいるのだが、まだ心の中でグラグラしている。

不安なんだと思う。自分らしく生きることが正しいとは思うのだが

まだ、自分を信じ切れずにいる自分がいる

 

こんなことなら、普通に就職の道を選んだほうが正解だったのだろうか?

言いようのない不安だ

 

恐らく、万が一にもこの文章に目を通してくれる人がいるのなら、何を言っているのか何を書いているのか訳が分からないだろう

 

今日はまったくためにならない文章になった

そもそも、僕の出す文章など、だれが読むというのだろう?

僕の書いた絵は誰かが見てくれるのだろうか?

僕の吐く歌は何かの役に立つのだろうか?

 

楽観的な性格だと思っていたが、違うのだろうか

しかし、今こうして、文章を書いている僕は楽観的なんだろう

 

生きているだけで人に文句を言われたり、馬鹿にされることがある

 

人はなんで生まれて、死んでいくのだろう?

人間にとって代わる、新しい知的生命体が出てきたら、その真理を解明してくれることを期待したい

 

どうあることは人類の幸せかなどというのは事が大きすぎて、手に負えない

自分の幸せもよくわからないのに世界のことなどを語ろうというの馬鹿げている

 

VRがもっと普及してきたら、仮想現実に行けてずっと現実逃避してしまいそうだなと思う

 

今日はまったく、生産性のない一日であった。

 

 

どうしたら、自分の世界を広げられるか、方法はわかっているのだが、めんどくさがりな自分がすぐに顔を出してくる。精神面の弱さを克服しなければ、臨む明日は手に入らない。

 

強く前に進んでいこう、大きく道を外れ、どんな人よりも変人になろう

誰よりも強靭な精神を養おう。人間は結局は強い自己を確立することでしか自由になれない。

 

 

 

 

 

 

言葉は諸刃の剣だ 幸にも不幸にもなる 

言葉は人を幸せにも不幸にもする

言葉は剣である 

悪い言葉は相手の心を叩き折り、粉々にする

良い言葉は相手の心に宿る魔物を退治してくれる

 

私たちは言葉の使い方をもっと慎重に考える必要がある

 

悪い言葉、良い言葉を判断することは難しい

「バカ野郎」という言葉があるがこれは人によって良い意味も悪い意味にも解釈できる

 

要するに、悪い、良いは受け取った側の解釈の問題だ

言葉を発信する人が、受け手側が良い解釈と受け取れるように「愛のある伝え方」をする必要がある

 

言い換えるなら、「思いやりをもって人に接するということだ」

多くの人が知っていることだ

 

言葉が剣であることを示す例がある

ガンに侵されていないのに死んでしまった人という不思議な話がある

ある男は体調が悪く医者にいった

医師に、ガンだと告げられ余命を宣告された

そして、患者はみるみる弱っていき終いには命を落とした

 

病は気からの良い例である

 

教訓

・人は言葉によって死ぬこともあるということ

・言葉は慎重に扱うべきということ

・相手の話を権威だけで鵜呑みにせず、他の病院にも行ってみるべきだったということ

 

これらの教訓は人生において非常に大切なことだ

 

現代はインターネットの普及により言葉が溢れているような状況だ

一つ一つ言葉を吟味している暇はないように思われる

 

しかし、そんな時代だからこそ、一つの言葉の意味をよく考えてから使うようにしたいと思う

 

これまで、何の分別もなく言葉を使ってきた

多くの人を傷つけた

それは、一様に私の無知が原因である

情報の多さに負けて、不確かな情報、愛のない言葉を発することは

自分の無知を晒して生きるようことだと思う

 

これからも、誤った言葉や根拠の薄弱な情報を発信してしまうことはあると思う

それでも、抗い続ける努力をやめてはいけないのだろう

死ぬまで、何もわかる気がしないが、常に愛を持った言葉語るように心がけたいと思う

 

・自分批評・悪魔の代弁者を育てる

・言いたいことが伝わりづらい、もっと簡潔に文章をまとめられないものだろうか

・もう少し、具体例を効果的に使えるように努力しよう

・言葉に力が感じられない

・努力賞にも届かない

 

夏目漱石の話

今日、夏目さんの「吾輩は猫である」を読んでいた

夏目漱石の文章は恐ろしく無駄がない。さらに語彙力も豊富でまったく飽きが来なかった。

面白いのは、経歴だ漱石さんは40歳頃に帝国大学教授から新聞小説家へ転身している

キャリアよりも己の好きなことをやる人にはとても憧れる

 

いつまでも成長のため変化しようという気概が感じられるからだ

私もいつまでも変化を恐れずに、「変人」でありたいと思う