人間の存在理由は何なのか?遥か彼方から紡がれる今とは何なのか
人間の存在理由について考えてみた
結論は「分からない」に尽きる
(このブログの内容は科学的根拠などはなく、単なる私見です)
古代に生きた人々は昼は狩りをして、夜は火の周りに集まって、一日の出来事について話をしていたらしい。
過去から、現在まで多くのものが生み出されてきた、数え切れないほどの人生があった
およそ、人という扱いを受けずに死んでいく人もいれば、優雅な暮らしを楽しんだ人もいたのだと思う
今もその実状は変わらないだろう。
私がこうしてくだらない文章を書けていることは、とても幸福なことだ
学ぶ意欲があれば、学問もできるし、日本にいる限りにおいては娯楽には事欠かない
そのうえ、日本はとても安全だ。ただ、安全であるがゆえに、緊張感を欠いてしまう
快適な環境というのは、人間の成長にとってはあまり好ましくない。
不快な環境に自らを放り込むことでしか、成長は期待できない
成長をしなくてもよい社会、生き物であれば無理に自らを劣悪な環境に置くこともないのだが
いかんせん、我々の生きる世界はそうではないようだ
生きるためにはお金が必要で、社会に貢献することを求められる
社会に貢献するためには有用なものを生み出さなければならない
過去から、必要とされるものが多く生み出されてきた。
昔の人は今の世界を見たらどう感じるのだろうか
ものが多く増えすぎた現代に幸福を感じるのだろうか
現代の人はものが増えすぎていて、幸福を感じづらくなっているように思われるが
結局のところ、人間の生きている意味ってないんじゃないかなと思う
(これは人類は滅べば良いとかそういった類のものではない)
すべてが偶然であり、無理に人生に意味を求める必要もないし、何かをやらなければいけないという使命感を持つ必要もないと思う
(使命感のある人は非常に立派)
「今を楽しく、幸せに生きる」
使い古された言葉ではあるが、みんなが常に心の中にもっておくべき言葉ではないだろうかと思う
辛いことがあったら、やめちゃえ、逃げちゃえ
ただ、自分のやりたいことは全力でやることが大事
誰のいうことも鵜呑みにしてはいけない。誰も他人の人生を本気で考えている暇はないから。自分の人生は自分で考えなければいけない。
他人に考えることを任せた人生で自分の人生を放棄したようなものだろう
自分で考えることは疲れる。答えのない問題と常に戦い、もがかなkればいけない
誰かに人生を任せたら、一応は答えを出してくれるのだ。
「○○をすればよい」と明確に解をくれるだろう。
しかし、そんな人たちほど無責任なものはない
信じるべきは「自ら考えろ」と言ってくれる人だと思う
存在理由なんてもの自分で考えろという話だ(笑)
こんなブログに見る価値はないのである
SEO対策などめんどくさい、キュレーションメディアがあってはしっかりとブログを書く気は起きないのである
余談であるが、海外のサイトは面白い
各人が思考を凝らしてくれているため、情報の密度がとても濃く、みるに値する
明日からも創作活動がんばろう