世の中に意味のあることはあるんだろうか? 死ぬことはどういうことなのか
最近、死ぬことについて考える。
自殺志願者とかそういわけではないのだが、
「死」と真っ向から、対峙した経験はない。
幸いなことに、今まで、大病も患わず
事故にも、あわずに生きてこれた。
ミサイルがふってくるかも知れないと煽られるからか、自然そのような考えも沸いてくる。
人間の存在の偶然性を思うと、死ぬことも偶然であり必然なんだろう。
死ぬことは怖い。痛いのも嫌だ。ゆっくりわからないうちに死にたい。
嫌に宗教じみた話になりそうだ。
今日は漠然としたことを朗々と書いていこうと思う。
僕はこのような漠然とした何の答えも出ない議論が好きである
生産性や合理性を何よりも求めていた時期もあったが、それはあまり意味をなさないのではという考えに至った。
僕は結論や結果、実存などというものにはたいして意味を感じえない。
今というのが、ほんとうに存在しているかも怪しいものだ。すぐに過去に流れていく。
今を掴みとることの難しさをこのブログを書いていて再認識している。
今の20代にリーダーといえる志を持った人はいるのだろうか。
この複雑でめんどくさい日本社会を破壊し、創造しようという、気概に満ちみちた。人はいるのだろうか?
世には美男は増えたが、心が清くかつ自らを捧げ未来を変えんというはあまり見受けられないように思う。
あくまで私見だが
日本の抑圧的な考え方を変革しなければいけない時期にあると思う
もっと開かれた国家であって欲しい。
これは願いであり、甘えだ。
僕は常に他人任せだ。弱い人間であるという自覚がある。
もうそれは変えようのない事実である。
問題はこれからその弱い自己とどう向き合うべきかという
社会は誰かが変えてくれることを期待しよう
自分をどう変えるかを考えたいと思う
人を変える大きな要因の一つに「不幸」というものがあると思う(事象を幸ととらえるか不幸と捉えるかは本人次第なのだが)
この「不幸」から何を学びとするのかで人の方向性というものが決まってるのだろう
私という弱い自己の形成には、今までの多くの失敗が起因している。主に人間観家である。
私はどうにも1人でいたい質のようで社会に全くなじむことができない。
恐らく、それほど長く生きられないように思う。
ルソーなどは人間は一人で生きたい生き物であるという類の言論を唱えており。ひどく共感を覚える
世の流れというのはどうにも退屈で必死でついていこうという気が起きないのだ。まったく阿呆である
人というのは弱く脆い生き物でその精神はすぐに瓦解してしまうものだ
権威というものにすぐにひれ伏す。良く調べもせず、その種の専門家を崇める
怠惰である
世の中に完璧な人間「パーフェクトヒューマンはいるのだろうか」
いるのならぜひお目にかかりたいものだ
きっと、後光がさして、僕などは目を閉じてしまうのだろう
人生とは無意味だ。しかし、楽しく生きることにはとても価値があるように思う。
五感を存分に使い生きるべきだ。さらに、人間には「考える」という武器がある。
より良いものを考えていこう。そして、死ぬ間際、世界や人が何を求めているのか、その一案にでもつながる何かが生まれてくれていることを期待しよう
あと、余談だが、こんなブログにも読者が一人ついてくれた。ありがたい限りである。