死が側で嗤っている
「死」が側で嗤っている
令和元年10月半ば
この頃、そんなことを強く感じる
秋風のせいか、不眠のせいか、退屈のせいか分からないが確かに強くそんなことを感じる
「死」の匂いが近くに香っているのは、決して悲観的になることではないだろう
きっと、そんな状況にあるからこそ、珈琲の匂いが芳しく、地に落ちた花びらの美しさが鮮明に心に残り、「生」と言うものが愛らしい輝きを放ち出す
毎朝起きると胸の痛みと闘うからこそ、誰かの痛みに敏感になり、共感を勝手ながら伴ってしまう
(きっと、これは、はた迷惑な行為だ!)
言葉というものは、表現というものは、砂の城だ
そして、おらの城は脆い、そよ風で転ぶぺライチの紙に書いた城だ(色もない直線の落書き)。まず、垂直に地に立つことすらままならない、、
大した教育も受けてこなかったし、自ら進んで勉強しようというアグレッシブさもなかった、、
(今も勤勉じゃあない)
今日も夜からアルバイトだ
夢見てた、バイクに股がり、ギターを担ぎ唄ってる青年はどこにもいない
いるのはくたびれた三日月の、煙を吐く土偶だ
朝にはぐうぐうねちまって、気づけば星におはようだ
ふらりと消えてしまいそうだね、、
(きっと、人一人消えたところで世界は変わらない)
目まぐるしい時代の川で、ほんとに小さな小さな水泡が潰れたところでなんの問題もなく陽は昇り、また沈みを繰り返すだろなぁ、バカヤロー
だけど、もう少し、見たいものがあるなぁ
また出会いたい人もいるなぁ、、
きっと、笑っちゃうような話だってあるんだろなぁ、、とも思っちゃって踏ん切りがつかない
半端者なりに、糞みたいな人生を生き抜いて、路傍で笑いながら死んでやりたいと想う今だ。